Open Innovation WG ・ 技術導入ノート

LD転炉と
戦後日本の技術導入

オーストリアの小さな製鋼所で生まれた製鋼法が、なぜ日本で世界最速に普及したのか。「業界が一括で買った」という語り口が広く流通しているが、資料に当たると構造はそれとは違っていた。買い手の交渉力がどこから来たのかを、契約の形にまで降りて確かめる。

この記事の骨

LD転炉の特許はオーストリア側が持ち、国外供与は特許管理会社 BOT が窓口だった。日本側は複数社が同時に欲しがった。一社対多数の買い手という、値が競り上がる構図である。

実際に起きたのは 1956年4月に日本鋼管が単独でジェネラルライセンスを取得し、八幡製鉄がそこからサブライセンスを受けるという形だった。競願を斡旋したのは通商産業省である。日本鋼管は権利を独占せず、希望する国内会社に均等な機会で再実施を許諾した。

つまり買い手連合が先にあったのではない。先行した一社が、結果として国内の実施権の管理者になった。この差は小さく見えて、現代の共同ライセンス交渉を設計するときに効いてくる。

前のノート「送電インフラと工業所有権」で、1950年の外資に関する法律が技術援助契約を認可事項にし、国家が知財取引の門番になったところまで書いた。あれは制度の話だった。この記事は、その制度が具体的にどう作動したかの話である。

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何が新しかったのか

LD は Linz-Donawitz の頭字である。オーストリアの二つの製鋼所の地名で、技術そのものはスイスの技術者ロベルト・デューラーの実験に遡る。デューラーは 1948 年に試験に成功し、それをテオドール・ズースを中心とするオーストリア側の技術陣が工業規模に育てた。1952 年 11 月 27 日、リンツの製鋼工場で最初の 30 トンが出鋼される。ドナヴィッツの二番目の工場が動き出すのは 1953 年 5 月 22 日である。

原理は単純に言える。炭素を四パーセントほど含んだ溶けた銑鉄を炉に入れ、水冷したランスを上から差し込んで純酸素を超音速で湯面に吹きつける。酸素が炭素・珪素・マンガン・燐を酸化し、その酸化反応が強い発熱をともなうので、外から熱を加える必要がまったくない。むしろ熱が余るため、冷却材としてスクラップを一割から二割ほど投入する。炭素は一酸化炭素として抜け、二十分から三十分で炭素 0.05% 前後の鋼になる。内張りはドロマイトやマグネシアの塩基性耐火物で、生石灰を入れてスラグを塩基性に保ち、燐を除く。1878 年のトーマス法以来の原理がここでも効いている。

 ベッセマー転炉(1856)平炉(1864)LD転炉(1952)
酸化剤空気燃焼ガスと鉄鉱石純酸素
一回の所要時間約20分8〜10時間約30分
窒素の混入多い少ないごく少ない
スクラップほぼ使えない大量に食う1〜2割
成分の制御効きにくい効く効く

決定的だったのは二点である。

ひとつは窒素。空気の八割は窒素だから、ベッセマー鋼には窒素が残る。これが時効脆性を起こして深絞り性を悪くし、自動車の薄板に向かなかった。純酸素はこの問題を消す。

もうひとつは速度。平炉が八時間から十時間かけていた工程を、三十分で終える。二十分の一である。しかも建設費は平炉の半分以下で済む。

ただしこの技術には前提があった。安価な工業用酸素である。深冷空気分離の工業化がなければ、純酸素を湯に吹き込むという発想はコスト的に成立しなかった。技術は単独では現れない。

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不利な構図

ここから先が、この記事の本題である。

特許はオーストリア側にあった。国外へのライセンス供与は BOT(Brassert Oxygen Technik)という特許管理会社が窓口になっている。一方、日本では 1950 年代半ばに複数の高炉メーカーが同時に関心を持った。

この構図は買い手にとって不利である。売り手はひとり、買い手は複数。各社が個別に交渉に行けば、条件は競り上がる。技術を欲しがる度合いが強いほど足元を見られる。ライセンス交渉をしたことがある人間なら、この非対称がどれほど効くかは説明を要しないはずである。

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実際に起きたこと

1956 年 4 月、日本鋼管がアルピーネ社を窓口として BOT と技術提携契約を締結した。日本鋼管と八幡製鉄は競願の関係にあり、これを通商産業省が斡旋して、日本鋼管がジェネラルライセンスを取得し、八幡製鉄は日本鋼管と特許再実施権契約を結ぶ形に落ち着いた。

そして日本鋼管は、取得した権利を独占しなかった。希望する国内会社に均等な機会のもとで実施を許諾している。川崎製鉄、住友金属、神戸製鋼と、後続各社が短期間で導入できたのはこのためである。

LD転炉の実施権が日本国内へ渡った経路 VÖEST / Alpine(墺) LD転炉の特許権者 BOT 特許管理会社。国外供与の窓口 日本鋼管 1956年4月 ジェネラルライセンス取得 八幡製鉄 川崎製鉄・住友金属ほか 後続各社 通商産業省 競願を斡旋。外資法の認可権 独占せず、希望する国内会社へ均等な機会で再許諾
実施権が日本国内へ渡った経路。買い手連合を先に組んだのではなく、先行した一社がジェネラルライセンスを取り、それを国内へ均等に再許諾する管理者になった。点線は通商産業省の関与を示す。
通説との違い。この経緯は「日本の鉄鋼業界が一括で購入し、皆で共有した」と語られることがある。だが資料に当たると、事前に業界が連合を組んで交渉に臨んだのではない。競願が生じ、行政がそれを斡旋し、先行社の契約が結果として国内共有を可能にしたという順序である。到達点は似ているが、経路が違う。そして経路の違いは、この仕組みを現代に応用しようとするときに効く。連合は設計できるが、競願と斡旋は再現しにくい。
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なぜそれが可能だったのか

行政が斡旋できた根拠は、前のノートで書いた外資に関する法律にある。当時、外国技術の導入契約は認可事項であり、外貨の割当と結びついていた。認可しないという選択肢を持っている側は、交渉のテーブルに直接座らなくても結果を左右できる。複数社が別々の契約を持ち込んでも、一本化を促すことができた。

ここは慎重に書いておきたい。戦後日本の産業政策を万能の指揮者として描く「日本株式会社」的な解釈には、強い批判がある。行政指導の効果を実証的に否定する研究も蓄積している。ただし LD転炉の件に関しては、外資法の認可権という具体的な梃子が実在した点で、漠然とした行政指導論よりは足場がある。抽象的な影響力ではなく、契約が認可を要したという制度事実がある。

もうひとつ効いたのは、業界内部の技術交流である。鉄鋼協会や連盟の場での操業データの共有、技術者の相互訪問。導入は契約で買えるが、操業は買えない。炉が同じでも歩留まりと寿命は現場の運転で決まる。

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どれくらい速かったか

日本で最初の LD転炉は、1957 年 9 月、八幡製鉄の 50 トン炉である。日本鋼管は翌 1958 年 1 月に川崎の工場で稼働させた。ジェネラルライセンスを取ったのは日本鋼管だが、実際に先に火を入れたのは八幡だったことになる。

その後の置き換わり方が異様に速い。

粗鋼生産に占める転炉の比率(実測できた3点) 0% 25% 50% 75% 100% 1955 1960 1965 1970 1975 1980 5% 1958 55% 1965 79% 1970 1957 八幡 50t 稼働 1958 日本鋼管 稼働 1964 平炉が急減に転じる 1970 大手の平炉ゼロ 1977 最後の平炉が休止
粗鋼生産に占める転炉の比率。点は資料で確認できた三つの実測値だけを打ってあり、間を曲線で結んでいない(各年の連続データは今回の調査では取れていない)。下の帯は前後の出来事。1958年に約5%だったものが、1965年に平炉鋼を追い越し、1970年には79%に達する。

平炉の側から見ると、この曲線は消滅の記録である。1964 年以後に急減へ転じ、1970 年には大手各社の平炉がすべて休止または廃止された。最後の一基が止まるのは 1977 年、東京製鐵の岡山である。八時間かけて鋼を作っていた炉が、二十年で産業から消えた。

同じ時期の米国では平炉が残り続けた。既存の平炉に投じた資本がまだ償却されていない企業にとって、新技術への切り替えは合理的な判断にならない。後から来た側が最新の設備で跳べるという後発性の利益が、ここでは教科書どおりに働いている。先発の不利は、意思決定の怠慢ではなく、埋没した投資の帰結である。

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導入で終わらなかった

買った技術の上に改良を載せ、輸出側に回る。この転換がどこで起きたかは、はっきりしている。

OG法——転炉の排ガスを燃やさずに回収する設備である。転炉からは大量の一酸化炭素が出る。これを燃やして捨てるのではなく、冷却・集塵して燃料ガスとして回収する。八幡製鉄(のちの新日本製鐵)と川崎重工業の共同開発で、実用化までの開発は 1962 年から 1969 年にかけて進んだ。同時期のフランス系の方式を性能で上回っている。

順序を整理すると、こうなる。1956 年に特許を買い、1957 年に炉を動かし、1962 年から改良技術の開発に入り、1960 年代末にはその改良が国際的な水準を超えた。十年余りで、実施権を買う側から供与する側へ移った。

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実務への含意

この事例から取り出せるものは三つある。

第一に、買い手の非対称は制度で埋められる。技術を欲しがる企業が複数あり、権利者がひとりであるとき、個社の交渉力では勝てない。しかし交渉の外側に、契約の成立自体を左右する条件を置ければ、力関係は変わる。当時それは外資法の認可権だった。現代に同じ梃子はないが、共同購買、パテントプール、標準必須特許の交渉枠組みなど、買い手側を束ねる仕組みは設計できる。

第二に、束ね方には二通りある。事前に連合を組む方式と、先行者が取得して再許諾する方式である。この事例は後者だった。後者は先行者に管理の負担と裁量が集中する代わりに、交渉そのものは速い。どちらを選ぶかは、参加者の数と、先行者が独占しない保証をどう作るかで決まる。日本鋼管が独占しなかったことが、この仕組みが機能した条件である。制度は権利者を作れるが、その権利者が抑制的にふるまうかどうかまでは保証しない。

第三に、契約で買えるものと買えないものがある。特許の実施権は買えた。操業のノウハウは買えない。この区別は、幕末に蘭書だけで反射炉を築こうとした藩や、設計図どおりに建てた高炉が吹き止まった 1901 年の八幡製鉄所(事例ライブラリの当該項を参照)が示していることと同じである。形式知は移送でき、暗黙知は移送できない。LD転炉が速やかに定着したのは、契約と並行して人が動き、業界内で操業の知見が回ったからだった。

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いまLD転炉が置かれている場所

現在も高炉一貫製鉄所の製鋼工程はほぼすべて LD転炉である。ただし脱炭素の文脈では、その位置づけが変わる。転炉は高炉が作った溶銑を前提にする装置だからである。還元を水素に移して直接還元鉄に切り替えると、接続先は転炉ではなく電炉になる。

1950 年代に平炉を二十年で置き換えた技術が、いまは置き換えられる側にいる。LD転炉の運命は、高炉の運命と一蓮托生である。

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まだ埋まっていない穴

本ノートは公開情報のみで構成した。以下は確認できていない。

日本鋼管の稼働炉の容量。資料により 32 トン・40 トン・42 トンと記述が割れる。基数についても二基とするものと単数のものがある。八幡の 50 トンは複数資料で一致。
「水江」か「川崎」か。本ノートは川崎の工場とした。水江工場は 1958 年 9 月に世界銀行から転炉建設の融資を受けており、最初の稼働炉とは別と見られるが、両者の関係を一次資料で確認していない。
ロイヤリティの水準。ジェネラルライセンスの条件も、国内サブライセンスの条件も、金額を確認できていない。ここが取れると「制度で買い手の交渉力を作った」効果を金額で測れる。
通産省の斡旋の実態。斡旋があったこと自体は複数の記述で一致するが、どの段階で誰がどう関与したかの一次記録には当たっていない。
米国初導入の経緯。1954 年に McLouth Steel が導入したとされ、北米では別の代理店が窓口だったと言われるが、今回の調査では裏が取れなかった。
OG法の海外供与。欧米へ逆にライセンス供与されたという記述を確認できていない。開発主体(八幡製鉄と川崎重工業)と開発期間(1962〜1969年)は確認済み。
各年の転炉比率。連続した年次データが取れず、図には三点のみを打った。

主な典拠

技術と普及/日本鉄鋼協会『鉄と鋼』掲載の技術史論考(製鋼技術の百年、複合転炉の開発史)——八幡 1957 年 50t・日本鋼管 1958 年の稼働、転炉比率(1958年約5%/1965年55%/1970年79%)、1964年以後の平炉の急減と 1970 年の大手全休廃止、1977 年東京製鐵岡山での最後の休止、OG法の 1962〜1969 年の開発実用化。

ライセンス/同上および事典類——1956 年 4 月の日本鋼管とアルピーネ社・BOT の契約、通産省の斡旋によるジェネラルライセンスとサブライセンスの構成、日本鋼管が独占せず均等な機会で許諾したこと。

起源/voestalpine 公式資料——1952 年 11 月 27 日リンツでの初出鋼、1953 年 5 月 22 日ドナヴィッツ、ロベルト・デューラーの 1948 年の試験、テオドール・ズースらによる工業化。

制度/外資に関する法律(1950年公布、1980年廃止)による技術援助契約の認可制。詳細は本サイト内「送電インフラと工業所有権」を参照。