通勤の途中で見上げた柱上変圧器から始めて、その技術がどうやってこの国に入ってきたのかを遡る。模倣し、合弁を組み、やがて資本を渡さずに特許だけを買うようになる——技術取引の形態が変わっていく背後には、そのつど知財制度をどこまで信用できたかという一本の軸が通っている。
技術を守る手段が弱いとき、外国企業は会社そのものを持とうとする。制度と司法が信用できるなら、株を持たずロイヤルティだけ取ればよい。知財制度への信頼度と、資本参加の必要度は反比例する。
日本の産業史はこの軸の上を移動した。模倣が合法だった時代(1885–1899)、資本の所有が担保になった時代(1899–1941)、国家が門番になって資本なしで技術だけを買った時代(1950–)。そして 2020 年、かつて外資と組まなかった会社が欧州の送電資産を買う側に回る。
現代の OI 実務で JV とライセンスと共同研究を選び分ける判断は、この同じ軸の上にある。
朝の道で電柱を見上げると、灰色の円筒がぶら下がっている。柱上変圧器という。この一点で、送電網を流れてきた 6,600 ボルトが、家庭で使う 100 ボルトと 200 ボルトに落ちる。
その円筒の中身は、鉄心に巻かれた二組のコイルである。原理は 1880 年代に確定していて、それ以来ほとんど変わっていない。変わっていないどころか、この装置が存在したという事実そのものが、電気を運ぶ方式を決めてしまった。
そして、この装置がどうやって日本に来たのかを辿ると、特許制度の話になる。
1882 年、エジソンがニューヨークのパールストリートに発電所を建てた。直流 110 ボルト。送れる範囲は半径 1.5 キロメートルほどだった。
理由は単純な物理にある。送電線で失われる電力は電流の二乗と抵抗の積、つまり I²R に比例する。損失を減らすには電流を下げるしかなく、同じ電力を送りながら電流を下げるには電圧を上げるしかない。ところが当時の直流には、電圧を上げ下げする実用的な手段がなかった。
1885 年にハンガリーのガンツ社が、翌 1886 年に米国のウィリアム・スタンレーが、実用的な変圧器を完成させる。交流であれば電磁誘導で電圧を自在に変換できる。送電の途中は高電圧・小電流にして損失を抑え、使う場所の手前で低電圧に落とせばよい。1890 年代の「電流戦争」は、この一点で決着した。1895 年のナイアガラ発電所で交流は事実上の標準になる。
いま電柱にぶら下がっている円筒は、その決着の末端である。発電所で昇圧し、送電線で運び、変電所で段階的に落とし、最後に柱上変圧器で家庭用にする——この階層構造は、120 年前に決まった形のまま動いている。
送電網を成立させたのは変圧器だけではない。高い電圧を扱うには、それを閉じ込める部品が要る。
碍子は、もともと 1840 年代の電信線のための部品だった。電線を木の柱に直接留めると、雨が降るたびに柱を伝って電気が逃げる。そこで磁器やガラスの絶縁体を挟んだ。ただし初期のピン碍子は形状の制約から数万ボルトが限界で、超高圧には届かない。
これを解いたのが 1900 年代後半の懸垂碍子である。皿状の碍子を鎖のようにつなぎ、段数を増やせばその分だけ耐電圧が上がる。部品を作り直さずに電圧を上げられるようになった。送電電圧の上昇は、この一点の発想に依存している。
電線も変わった。当初の銅から、アルミ精錬の工業化を経て、鋼心アルミより線へ。中心の鋼で張力を受け、周囲のアルミで電気を通す。重い銅では届かなかった長い径間を、鉄塔で渡せるようになった。
変圧・絶縁・遮断・ケーブルという四つの領域は、いまも競争軸として残っている。日本勢が強いのは真空遮断器、架橋ポリエチレンケーブル、超高圧碍子といったあたりで、いずれも素材と製造の蓄積がものを言う分野である。
ここまでの発明は、ほぼ全部が欧米のものである。では日本の電力会社と電機メーカーは、それをどうやって手に入れたのか。
1883 年に東京電燈が設立され、1887 年に開業する。1889 年には大阪電燈が交流を採用した。1914 年には猪苗代の水力発電所から東京の田端変電所まで、115 キロボルトで 225 キロメートルあまりを送る。当時の日本にとっては桁違いの規模だった。
この時期の技術導入は、いまも痕跡を残している。東日本が 50 ヘルツ、西日本が 60 ヘルツに分かれているのは、東京電燈がドイツ系の、大阪電燈が米国系の発電機を入れたためだと説明されるのが通例である。どの国から買ったかという一回の選択が、100 年以上あとの系統設計を縛り続けている。技術導入の経路依存として、これ以上に分かりやすい例は少ない。
そして、この「どこから買ったか」という問いは、当時の日本では「買う必要があったか」という問いと表裏だった。
日本の特許制度は 1885 年の専売特許条例に始まる。起草し、初代の局長を務めたのは高橋是清である。
この条例には、いまの目で見ると決定的な特徴がある。外国人の出願を受け付けなかった。国立国会図書館の解説は、その理由をこう書いている。外国の技術を取り入れる段階だった日本は、外国人の申請を認めなかった、と。
つまり、外国の技術を日本国内で真似ることは、国内法上とがめられなかった。産業政策としての意図は明確で、制度は自国の産業を育てるために設計されていた。工業所有権の保護を定めたパリ条約は 1883 年に成立していたが、日本はまだその外側にいた。
特許が問題にならない領域では、技術移転はもっと直接的な形をとった。1872 年に操業を始めた富岡製糸場は、フランス人ブリューナの指導のもと、人と設備そのものを招くことで技術を得ている。ライセンス契約ではない。そして諏訪をはじめとする民間の製糸業は、それを在来技術と接合して独自に発展させた。模倣も改良も自由だったからこそできたことである。
生糸で稼いだ外貨が機械の輸入を可能にし、条約改正の交渉力を支えた。技術を「買える」立場に立つための原資が、特許制度の外側で作られていた。
1899 年、特許・意匠・商標の三条例が改正されて特許法・意匠法・商標法になり、同じ年に日本はパリ条約に加盟する。外国人にも門戸が開かれた。
重要なのは、その動機である。特許庁の公式資料は、この改正の前段をこう説明している。日本と欧米各国との間で領事裁判権等に関する不平等条約の改正合意がなされ、その結果として明治 32 年に三条例が再度改正され、同年パリ条約に加盟した、と。
技術政策として自発的に選んだのではない。治外法権の撤廃と引き換えに、内国民待遇を受け入れたのである。国立国会図書館の記述も、パリ条約加盟を「不平等条約改正の駆け引きの中で」実現したものと位置づけている。
この一年を境に、外国技術は「タダで真似るもの」から「買うか、組むか」に変わった。
1899 年以降、外資との提携が集中する。日本電気はまさにこの年、ウェスタン・エレクトリックが 54% を出資する合弁として設立された。東京電気は 1905 年に GE の出資 51% を受け入れ、芝浦製作所は 1909 年に GE が 24.8% を保有する。1923 年には三菱電機がウェスチングハウスと技術提携し、同じ年、古河電気工業とシーメンスの提携で富士電機製造が生まれる。社名はフルカワの「ふ」とジーメンスの「じ」から採られていて、会社の名前そのものが合弁の産物である。
ここで問うべきなのは、なぜライセンスではなく資本参加だったのかである。
外国企業が他国の市場で利益を確保する手段は、輸出・直接進出・ライセンス・合弁のいずれかになる。植民地や半植民地であれば、直接進出や不平等条約下の特権で用が足りた。日本ではそれができない。関税自主権が回復に向かい、法制度が整備され、外資の全面支配を許さないだけの政治的自律性があった。
かといって、ライセンスだけでは心もとない。契約を結んでも、それが履行されるかどうかを担保するのは裁判である。制度は 1899 年に整ったが、運用の実績はまだ薄い。特許を侵害されたときに実際に救済されるという確信は、条文からは出てこない。
そこで使われたのが、資本だった。
エクイティ(資本の所有)が、パテント(工業の所有)の不完全さを補う担保として使われた。
技術を守る手段が弱いとき、人は会社そのものを持とうとする。株主であれば、契約の履行を訴訟に頼らず、経営を通じて確かめられる。役員を送り込めばなおよい。実際、東京電気にも芝浦製作所にも、資本とライセンスと役員派遣はセットで来ている。
もっとも、この構図を「外資が日本企業を支配した」と読むと史料に合わない。姉妹ノート「電機四社の外資提携 1899-1975」で確かめたとおり、提携は成長の加速装置というより生存条件として選ばれている。東京電気は輸入品との競争で収益が悪化した末に GE の出資を受け入れて「ようやく企業基盤を確立」し、三菱電機は品質不良が頻発した末に WH と組んで「ようやく事業基盤を確立」した。芝浦製作所の大田黒専務は 1909 年に、課題は資本よりむしろ技術であり、自社には研究所をつくる余裕がないから GE と組むのが得策だ、と説いている。
提携は、研究所の代替物だった。
そして代償もあった。導入した技術の消化と製品化に研究開発の資源が固定され、ロイヤルティがコスト圧力として残る。自主技術の確立が全社方針として掲げられるのは、東芝で 1969 年、三菱電機で 1970 年代に入ってからである。
上段が法と条約、下段が各社の提携である。点を押すと中身が出る。制度が動いた年に提携の形が変わっていることを、同じ軸の上で確かめられる。
上段の制度と下段の提携を同一の時間軸に載せた。1899 年に提携が始まり、1941 年に切れ、1950 年以降は資本を伴わない取引に移る。
提携の出資比率は姉妹ノートの検証値による。三菱電機とウェスチングハウスの資本関係は確認できていないため、技術提携としてのみ記載している。
1921 年の特許法改正は、化学物質そのものには特許を認めず、製法特許にとどめたと説明される。物質特許が導入されるのは 1976 年、実に半世紀以上あとである。後発国が自国の化学産業を育てるあいだ、物質そのものの独占を認めないという設計は、産業政策としては筋が通っている。同じ改正で職務発明の扱いも整理され、発明の帰属が個人から企業へ移っていく。
企業が発明を抱えるようになれば、それを管理する人間が要る。契約書を読み、出願を管理し、ロイヤルティを交渉する実務者である。1938 年 9 月 9 日、重陽会が設立された。現在の日本知的財産協会の前身であり、名前は設立日の重陽の節句に由来する。「重電」との音の近さは偶然にすぎない。
業界団体ではなく、企業内の実務者の集まりとして始まったことが効いている。政策や利害の調整を担う経済団体ではなかったため、戦時の統制団体への再編や敗戦後の解散の対象になりにくく、戦中戦後を通じて連続性を保った。以後の改称は、事業者工業所有権協会(1956 年 10 月)、日本特許協会(1959 年 1 月)、日本知的財産協会(1994 年 5 月)、一般社団法人化(2014 年 5 月)と続く。
1938 年という時点も示唆的である。日中戦争下で国家総動員法が成立した年であり、外国為替の管理でロイヤルティの送金は難しくなりつつあった。合弁の蜜月が終わりかけたところで、契約と特許を管理する知恵が必要になったことになる。
1941 年、敵産管理法。外資との資本関係が一斉に断ち切られる。
日本電気の場合、経営権が日本側に移ったのはこの年である。ウェスタン・エレクトリックの国際部門は 1925 年に ITT へ売却され、1932 年には住友合資が株を取得して人事権と最終責任を握っていたが、外資の持分が消えるのは敵国資産としての処分によってだった。
ここには、技術史を年数で測るときの落とし穴がある。日本電気の「自立」は技術で来たのではない。戦争と資産接収という外生的なショックが、技術的な成熟とは無関係に外資比率をゼロに近づけた。提携から自立までの年数を素朴に数えると、この交絡を見落とす。
1950 年 5 月、外資に関する法律が公布される。外国投資家との技術援助契約は、締結も更新も認可事項になった。認可の窓口は当初、外資委員会である。
国が交渉の当事者として間に入り、ロイヤルティを抑え、独占的な条項を排し、資本参加を伴わない取引へ誘導した。戦前は資本を渡して技術を得た。戦後は資本を渡さずに技術だけを買った。差を作ったのは、国家が知財取引の門番になれたかどうかである。
この体制の産物としてよく知られているのが、東京通信工業によるトランジスタ特許の導入である。ウェスタン・エレクトリックはこの特許を 2 万 5 千ドルで公開ライセンスしており、東京通信工業は 1953 年に契約へ進んだ。技術援助契約は含まれていない。特許の実施権だけを買い、開発は自力で行った。1899 年に同じウェスタン・エレクトリックが日本電気の株を 54% 持つところから始まった関係が、半世紀を経て、資本ゼロの純粋な特許取引になっている。
外資法は 1980 年、外為法の改正にともなって廃止される。門番の時代が終わる。
1980 年代、米国のプロパテント転換と日米半導体摩擦のなかで、日本企業は制度の受益者から被告の側にも立つようになる。守るための知財から、攻められる知財へ。ここから先は、多くの読者が実務として知っている時代である。
そして 2020 年 7 月、日立製作所が ABB の送配電事業の 80.1% を取得した。金額は数千億円規模、負債の引受まで含めれば一兆円を超えると報じられた。会社は 2021 年 10 月に Hitachi Energy へ商号を変え、2022 年に残る 19.9% の取得で完全子会社となる。
買ったものは、この記事がここまで辿ってきた技術そのものである。高圧直流送電、超高圧変圧器、ガス絶縁開閉装置、そして 90 か国を超える電力会社との長期の関係。日立の側にはパワー半導体の内製と制御システムがあり、デバイスとデジタルを、機器とグローバル顧客基盤に接合する取引だった。
象徴としての意味は小さくない。1910 年に外資と組まず、オーナーの明示的な承認さえ得ないまま自力でモーターを作った会社が、110 年後に欧州の送電資産を買う側に回った。この記事の対照群だった会社が、系譜の終点にいる。
ここまでを一本の軸にまとめると、こうなる。知財制度をどこまで信用できるかによって、必要な担保の重さが決まる。制度が弱ければ資本を、強ければ契約を使う。
この見方は、現代の判断にそのまま使える。新興国の企業と組むときに合弁を求められるのはなぜか、逆に自社が合弁を求めたくなるのはどんなときか。相手が信用できないからではなく、制度が担保になっていないから資本で代替しているのだと理解すれば、交渉の焦点は変わる。契約の履行を確かめる手段を別に用意できるなら、資本を出さずに済むかもしれない。
逆もある。制度が十分に強い相手国で、それでも合弁を選ぶなら、担保以外の理由——市場アクセス、人材、規制対応——がそこにあるはずで、それを明示できないまま資本を出すのは、歴史的にみて過剰な担保である。
1899 年は模倣から取引へ、1921 年は制度設計による延命、1938 年は実務者の組織化、1941 年は暴力による切断、1950 年は国家管理による買い叩き、1980 年代以降は保有者としての防衛。朝に見上げた変電設備は、その全部の地層の上に立っている。
本ノートは公開情報のみで構成した。以下は確認できていない点であり、数値や断定を引用する際は原典に当たること。
制度/特許庁『特許行政年次報告書 2018 年版』冒頭特集「明治初期からの産業財産権制度の歩み」——明治 32 年の三条例改正とパリ条約加盟、およびその前段としての不平等条約改正合意について。国立国会図書館「博覧会——近代技術の展示場」(1873 年ウィーン万博とパリ条約、明治の特許制度)——専売特許条例が外国人の申請を認めなかったこと、パリ条約加盟が不平等条約改正の駆け引きの中で行われたこと。
協会沿革/一般社団法人日本知的財産協会「協会概要」——1938 年 9 月 9 日設立・重陽会、以降の改称年。
提携/本サイト内ノート「電機四社の外資提携 1899-1975」(石井晋「日本における電機産業の発展史 (2)」学習院大学経済論集 第 57 巻第 4 号、2021 年、および各社公式沿革に基づく)——出資比率、当事者の発言、自主技術方針の年次。
戦後/「外資に関する法律」(1950 年 5 月 10 日公布、1980 年廃止)の技術援助契約認可制。トランジスタ特許の公開ライセンス(2 万 5 千ドル)と東京通信工業の 1953 年の契約については、技術史・社史系の二次資料による。
再編/日立製作所による ABB 送配電事業 80.1% の取得(2020 年 7 月)、Hitachi Energy への商号変更(2021 年 10 月)、完全子会社化(2022 年)は各社発表および報道による。