幕末の藩は、現物も技師も見ないまま、オランダ語の本一冊から反射炉を築いた。設計図は渡ったのである。それでも鉄製大砲は割れ続けた。渡らなかったものが何だったのかを特定すると、これは 50 年後に八幡製鉄所で反復される話になる。
反射炉の発明の本質は、燃料と原料を空間的に分離したことにある。金属が燃料に触れないので、硫黄を含む石炭を燃やしても鉄が脆くならない。木炭への依存から抜ける道がここで開いた。
幕末日本はこの構造を、蘭書の翻訳と推論だけで再現した。炉は建った。ところが鋳造された鉄は脆く、砲身は割れた。律速していたのは炉ではなく、そこに入れる銑鉄の質だった。
形式知は本で渡る。暗黙知と素材は渡らない。1901 年の八幡製鉄所で、設計図どおりの高炉が吹き止まった話と、構造がまったく同じである。
反射炉という名前は、熱を反射させることから来ている。だが要点は反射そのものではなく、なぜ反射させる必要があったかにある。
それまでの製錬では、燃料と鉱石や金属を同じ場所で燃やしていた。高炉がそうである。この方式には避けがたい副作用がある。燃料の不純物が金属に移る。とくに石炭に含まれる硫黄は鉄を脆くする。だから石炭が豊富にあっても、製鉄には木炭を使うしかなかった。森林が製鉄の律速になっていたのは、この一点による。
反射炉はこれを構造で解いた。燃焼室と炉床を分け、アーチ状の天井で熱を炉床に返す。金属は炉床の上で、燃料に触れないまま溶ける。
反射炉は 17 世紀の半ばから使われはじめ、今日の形に近いものはイングランドとウェールズの境界あたり、17 世紀の最後の三分の一に現れる。最初の用途は鉄ではなく鉛と銅、そして錫だった。1687 年には、訴訟で鉛の製錬を妨げられた事業者が銅に移っている。技術は必要から生まれるが、その必要はしばしば技術以外の事情から来る。
18 世紀に入ると、鋳物用に銑鉄を溶かし直す炉として普及した。一度に大量の湯を鋳込めるので、大砲の鋳造に向いていた。幕末の日本が反射炉を欲しがったのは、まさにこの用途のためである。
製鉄史でよく名前が出るのは 1784 年のヘンリー・コートのパドル法である。反射炉の中で溶けた銑鉄を棒でかき回し、脱炭して錬鉄にする方法で、これによって錬鉄が量産できるようになった。
日本側の事情に移る。
設計図の役割を果たしたのは、ユーリッヒ・ヒュゲーニンが 1826 年に著した『ロイク王立鉄製大砲鋳造所における鋳造法』である。オランダ経由で 1836 年に日本へ渡り、1850 年までに蘭学者の手で邦訳が出た。江戸では蘭方医の伊東玄朴とその門人らが訳し、大島高任も手塚律蔵とともにこれを訳している。反射炉の築き方と砲の鋳造法だけでなく、高炉の構造や鉄鉱石の製錬まで含んだ、当時としては唯一に近い西洋技術の手引書だった。
ここで起きたことの異様さは、強調しておく価値がある。現物を見ていない。技師も来ていない。あるのは翻訳された文章と図版だけである。それを読んで、耐火煉瓦を焼き、炉を積み、火を入れた。
| 藩・所在 | 年次 | 主導 | 備考 |
|---|---|---|---|
| 佐賀・築地 | 1850年6月 築炉着手/同年11月 完成 | 鍋島直正 | 国内最初。1851年4月、五回目の操業で初めて鋳造に成功 |
| 佐賀・築地 | 1852年 | — | 良好な溶鉄が得られるように。4月に3・4号炉を増設し、6月11日に全4基で36ポンド砲を鋳造 |
| 佐賀・多布施 | 1853年の黒船来航のあと | 幕府の依頼 | 江戸湾の砲台用の鉄製大砲を幕府が佐賀藩に発注し、そのために新造 |
| 韮山 | 1857年 完成 | 江川英龍(着手) | 幕府主導。英龍は1855年に没しており、完成を見ていない。現存する唯一の実用炉遺構 |
| 薩摩・集成館 | — | 島津斉彬 | 佐賀の情報を得つつ独自に展開 |
| 萩 | — | — | 試験炉の性格が強い。遺構は煙突部のみ |
表の三行目に注目したい。1853 年の黒船来航のあと、幕府は自前で作らず、実績のある佐賀藩に発注した。さらに佐賀藩は、韮山や萩の反射炉建造も支援している。藩という単位を越えて、技術が水平に移動している。競合しているはずの主体が知識を渡す構図で、しかも渡す側に直接の見返りがあったとは考えにくい。
ここがこの記事の山場である。
反射炉を建てた藩は、ほぼ例外なく鉄製大砲の鋳造で苦戦した。砲身が破裂する事故が多発し、中ぐりの工程で壊れるものも多かった。日本では結局、青銅砲の段階で技術が停滞したままだった。
原因を炉に求めると読み違える。問題は、炉に入れる銑鉄のほうにあった。
この因果をはっきり示す事例がある。水戸藩の那珂湊では良質の鉄が得られず、鋳造したモルチール砲の強度に難があった。そこで技術者の大島高任は、炉を改良するのではなく、原料を作る側へ遡った。盛岡藩の釜石で西洋式高炉の建設に取り組み、良質の柔らかい鉄を供給できるよう実験を重ねている。
反射炉は銑鉄を溶かし直す装置であって、銑鉄を作る装置ではない。溶かす前の材料が悪ければ、どれだけ炉の腕を上げても出てくる鋳物は脆い。大島が高炉へ向かったのは、律速がどこにあるかを正しく見抜いたからである。
たたら製鉄が作る砂鉄由来の銑鉄は、燐と硫黄が極端に少ないという際立った長所を持つ。日本刀の物性はここに根がある。ところが大砲の砲身という用途では、求められる性質が違った。均一であることと、脆くないこと。ここで在来技術の長所は、そのままでは効かなかった。
渡ったもの。炉の構造、寸法、アーチの積み方、操業の手順——つまり本に書ける形式知。ヒュゲーニンの書は実際にその役目を果たした。炉は建ったのだから。
渡らなかったもの。ひとつは原料である。ヨーロッパの反射炉は、ヨーロッパの高炉が作った銑鉄を前提にしていた。その前提は本には書かれていない。もうひとつは操業の身体知で、これは人が動かなければ移らない。
技術移転で失敗するとき、たいていは移した技術そのものではなく、その技術が暗黙に前提していたものが欠けている。そして前提は、書かれていないがゆえに気づかれない。
本サイトの「新産業が生まれる条件 事例ライブラリ」に、1901 年の八幡製鉄所の項がある。ドイツ人技師の設計どおりに建てた高炉が吹き止まり、操業が停止した。帝国大学の野呂景義が呼び戻され、大冶の鉱石と筑豊の石炭という日本の原料の実態に合わせて、コークスの配合と炉体を作り直して再稼働させた。
幕末の反射炉と、構造がそのまま同じである。設計は正しかった。正しい設計が、別の原料の上では解にならなかった。
半世紀を隔てて同じ失敗が反復したことには、意味がある。これは個別の不手際ではなく、技術移転という営みに構造的に埋め込まれた失敗の型である。移す側は自分の前提を意識しない。だから伝えない。受け取る側は、書かれていないものを欠落として認識できない。
そして戦後、LD転炉の導入では同じ轍が踏まれなかった。「LD転炉と戦後日本の技術導入」で見たとおり、契約と並行して人が動き、業界内で操業データが回った。特許の実施権は買えるが、操業は買えないという区別が、このときには理解されていた。幕末から数えて百年かかっている。
反射炉は 1860 年代以降、ベッセマー転炉に主役を譲る。ここで話を終えると、technology が世代交代したという平板な話になる。
実際には消えていない。1864 年のシーメンス・マルタン平炉は、蓄熱室を付けた反射炉である。燃料と原料を分け、天井からの熱で炉床の金属を溶かすという構造はそのまま受け継がれている。そして平炉はその後、一世紀近くにわたって製鋼の中心に居座った。LD転炉に置き換えられるのは 1960 年代のことである。
断絶ではなく、進化した形での存続だった。17 世紀に鉛を溶かすために作られた炉の構造が、20 世紀半ばの製鋼の主役として生き延びていた。
本ノートは公開情報のみで構成した。以下は確認できていない。
佐賀/佐賀市および県の文化財・歴史資料——1850年6月の大銃製造方設置と築炉着手、同年11月の完成、1851年4月の五回目の操業での初鋳造成功、1852年4月の3・4号炉増設と6月11日の全4基稼働による36ポンド砲、黒船来航後に幕府の依頼で多布施反射炉を新造したこと。
ヒュゲーニン書/U. ヒュゲーニン『ロイク王立鉄製大砲鋳造所における鋳造法』(1826年)——1836年の日本伝来、1850年までの邦訳、伊東玄朴らおよび大島高任・手塚律蔵による翻訳。
素材の制約/技術史資料——鉄製砲は材質を均一にできず砲身の破裂が多発したこと、那珂湊で良質の鉄が得られずモルチール砲の強度に難があり、大島高任が釜石で西洋式高炉の建設に取り組んだこと。
ヨーロッパ/反射炉は17世紀半ば以降に使われ、今日の形は17世紀末のイングランド・ウェールズ境界に現れたこと。1687年の鉛から銅への転換、クラネッジ兄弟の1766年の特許(第851号、商業採用の形跡なし)、ヘンリー・コートによる1783〜84年の改良と1784年の特許、シーメンス・マルタン平炉が反射炉の一種であること。