Open Innovation WG ・ 理論ノート
分業と、結合とオープンアーキテクチャは、どの理論の上に立っているか ── アダム・スミスからフリードリヒ・リストを経て、いまへ
オープンアーキテクチャとオープン&クローズ戦略は、経営学の新語のように見えて、 実は二百五十年の政治経済学の系譜の上に立っている。しかもその系譜は、 当サイトにすでにあるOI研究の系譜(チェスブロウ以降の組織論の水脈)とは別の水脈である。 本ノートは、その別の水脈——分業と結合という一本の主題——を、原典まで遡って辿り直す。 そして最後に、二つの水脈が交差する場所に知財の仕事があることを示す。
1四つの手 ── 誰が経済を調整してきたか
この系譜には、便利な背骨がある。市場と企業のどちらが経済を調整するのかという問いに、 それぞれの時代が「手」の比喩で答えてきた。オープン&クローズ戦略は、この系列の最新の一項として置かれている。
見えざる手
アダム・スミス(1723–1790)
市場が調整する。分業による専門特化が生産性を上げ、交換がそれを社会全体の利益へ変える。 ただしスミスは同時に、分業には市場の広がりという上限があるとも書いた(「分業は市場の大きさによって制限される」)。 この一文が、のちの系譜すべての種になる。
見える手
アルフレッド・チャンドラー(1918–2007)
市場ではなく経営者が調整する。19世紀末からの大量生産技術は、市場が担えないほど高速な調整を必要とした。 そこで垂直統合された多事業部企業が現れ、内部の管理階層が市場に取って代わる。 ——フルセット垂直統合型が正解だった時代の理論である。
消えゆく手
リチャード・ラングロア
チャンドラーの世界は終わりつつある。市場が広がり、調整の技術(=繋ぐ技術)が進歩すると、 垂直統合された工程は再び専門化して外へ出ていく。 ここが決定的に重要——ラングロア自身は、これを反スミスではなく 「スミス的な分業過程」が条件を得て再び動き出したものとして説明している。 つまり消えゆく手は、スミスへの回帰である。
伸びゆく手
小川紘一
分業が外へ出ていっても、自社が繋がり方のルールを握れば、外の分業から価値を引き寄せられる。 コア領域を知財で閉じ、劣勢領域はオープン標準化で開き、その二つを繋ぐ流路・プロトコル・インタフェースを 自社優位に設計する。——調整は市場でも管理階層でもなく、ルールが行う。
2分業だけでは価値にならない ── リストの生産諸力
この系譜でいちばん見落とされているのが、フリードリヒ・リスト(1789–1846)である。 経営学の教科書にも、標準的な経済学の教科書にも、ほとんど出てこない。 しかし「分業と結合」という言い方の出どころは、スミスではなくリストの側にある。
フリードリヒ・リスト1789–1846
リストのスミス批判は一点に尽きる。スミスは交換価値(いま何と交換できるか)を見たが、 重要なのは生産諸力(Produktivkräfte=将来にわたって富を生み出す力)である、と。 そして生産諸力は、個々の分業がばらばらに存在するだけでは生まれない。 分業が互いに結合されて初めて、国民経済としての力になる。
ここでリストが理論家であるだけでなく実務家だった点が効いてくる。彼は、結合のインフラを自分で設計し、敷こうとした人物である。
- ドイツ関税同盟(1834年発足)の理論的支柱。領邦ごとにばらばらだった関税を撤廃する =制度による結合コストの引き下げ。
- ドイツ鉄道網の提唱者。1833年にザクセンを起点とする全ドイツ鉄道網の建議を発表している =物理インフラによる結合コストの引き下げ。
なお、リストの処方箋そのもの(幼稚産業保護=後発国は自国産業が育つまで市場を閉じる)は、 国家スケールのオープン&クローズ戦略と読める。当サイトの 見せることと、守ることで扱った 1885年の専売特許条例(外国人の出願を受け付けなかった)は、日本がこれを実際に実行していた例である。
3なぜ指数関数になるのか ── 収穫逓増と「新結合」
分業と結合が進むと、産業は直線ではなく指数関数のプロファイルで成長する。 この形を最初に理論化したのは、スミスの一文を引き継いだ二人である。
アリン・ヤング — 累積的な自己増殖収穫逓増
スミスの「分業は市場の大きさによって制限される」を裏返した。 分業が市場を作り、市場が分業を進める。だから成長は一方向の因果ではなく、 自分で自分を加速する累積過程になる。ある産業が細かく分業されるほど、 その各段が独立した市場になり、そこにまた専門企業が入って分業が進む—— オープン標準化のタイミングで市場が急に立ち上がる現象は、この累積過程が 結合コストの低下によって一気に解放された姿として読める。
ヨーゼフ・シュンペーター — イノベーション=新結合結合
シュンペーターはイノベーションを、発明でも技術進歩でもなく 「新結合」(neue Kombinationen)と定義した。すでにあるものの、繋ぎ方を変えること。 ——用語のレベルで、この系譜と同じ場所を指している。 新しい財、新しい生産方法、新しい市場、新しい供給源、新しい組織——彼が挙げた五類型は どれも「新しい発明」ではなく「新しい組み合わせ」である。
4なぜ分けられるのか ── モジュール化の系譜
「分業する」と言うのは簡単だが、複雑なシステムをどこで切れば分業できるのかは自明ではない。 オープンアーキテクチャの、いちばん深い理論的祖先はここにある。
ハーバート・サイモン — ほぼ分解可能なシステム切れる理由
複雑なシステムは階層を持ち、そしてほぼ分解可能(nearly decomposable)である—— 部分システムの内部の相互作用は強く、部分システムどうしの相互作用は弱い。 だから、弱い面で切れば、内部を壊さずに分けられる。 これがモジュール化の原理であり、「どこにインタフェースを置くか」という問い全体の出発点である。 サイモンは同じ人物として、後述する限定合理性も提唱している。
ボールドウィン & クラーク — デザインルールと隠れ情報開閉の設計論
モジュール化とは、設計情報を可視情報(デザインルール)と隠れ情報(モジュール内部)に 分けることである、と定式化した。可視情報は全員が従い、隠れ情報は各モジュールの自由にしてよい。 そして各モジュールは独立に改良を試せるので、選択肢(オプション)の価値が生まれる。
日本側では、東京大学ものづくり経営研究センター(MMRC)を中心に、 擦り合わせ(インテグラル)型とモジュラー型の対比、そして 「製品アーキテクチャと組織能力の相性」という比較優位論が展開された。 非デジタル型の製品でも、接合面のノウハウが形式知として業界に定着した瞬間にモジュール化が進む—— という観察は、この線の延長にある。
5誰が結合を運ぶのか ── 繋がりの理論
分業を結合するのはルールと制度だけではない。人が運ぶ。この水脈は、 当サイトのOI研究の系譜と重なる部分だが、 「分業と結合」の側から見ると位置づけが変わるので、ここでも置いておく。
| 年 | 誰・何 | 分業と結合の系譜における位置 |
|---|---|---|
| 1759 | アダム・スミス 『道徳感情論』の共感 |
『国富論』より17年早い。同じ著者が、分業と共感の両方を書いている。 分業したものが結合されるには、利害の一致だけでなく、相手の立場を想像できることが要る—— 「可視化・共有が共感を生み、共感が協業を生む」という現代の主張は、ここに祖先を持つ |
| 1947– | ハーバート・サイモン 限定合理性 |
人は全体を見渡せない。だから分業する。だが同時に、分業したものを結合できなくなる原因も限定合理性である。 可視化の意味は、限定合理性の作用範囲を広げることにある |
| 1969– | カール・ワイク 二重相互作用/センスメイキング |
組織は構造ではなく組織化という過程である。互いの行動を予測し合う相互作用の連鎖が、 ばらばらの目的を共通の目的へ変える。結合が起きる現場のミクロなメカニズム |
| 1973 | マーク・グラノヴェッター 弱い紐帯の強み |
新しい情報は、親しい仲間ではなく弱い繋がりから来る。 分業のネットワークが自律的に成長するとき、その情報の経路がこれ |
| 1992 | ロナルド・バート 構造的空隙(Structural Holes) |
繋がっていない二つのクラスタのあいだに立つ位置に、情報と利益が集まる。 「繋ぎ方を握る者に価値が集まる」という主張の、社会学側の定式化。 伸びゆく手の起点は、構造的には空隙の占有である |
6場を用意したのは誰か ── 政策の系譜
この系譜には、理論と並走する政策の線がある。分業と結合が起きる「場」は、放っておいてできたのではなく、 制度として用意されたという点が、知財にとっては最も実務的な含意を持つ。
| 年 | 何が起きたか | 結合コストへの効き方 |
|---|---|---|
| 1834 | ドイツ関税同盟 | 領邦間の関税を撤廃=制度的な結合コストの除去。リストの構想の実装 |
| 1870s– | 各国の特許制度が体系化 | 閉じる制度の整備。ただし対象は物的な発明に限られ、この限定が百年以上あとに効いてくる |
| 1930s–60s | ケインズ経済学 | マクロの有効需要で成長を作る。供給側の構造には触れない |
| 1970s | スタグフレーション | 賃金低迷と物価上昇の同時進行。有効需要の政策が機能不全に陥り、 「需要ではなく供給側・構造側を見よ」という転換が起きる |
| 1980 | ミルトン・フリードマン訪中 | 1980年9月、鄧小平政権の招きで訪中し、党・政府の経済関係者に自由市場経済を講じた。 同年8月には深圳経済特区が設置されている。 自由主義経済学が、社会主義国の産業政策に取り込まれた結節点 |
| 1980–84 | 米国の制度パッケージ(下記) | オープンな分業を、政府が制度で長期に担保した。以下、知財に関わる4本を分解する |
1980–84年の米国 ── 「開くための、閉じる制度」
この4年間に成立した法律群は、ばらばらの規制緩和ではない。 オープンな分業が成立するために必要な「閉じる装置」を、同時に作っているという一貫性がある。
- 著作権法改正(1980) ── コンピュータ・プログラムを著作物として明示的に保護対象にした。 物的でないものに財産権を与えた最初の一歩。1870年代以来の「物でなければ権利にならない」という前提が、 ここで初めて崩された。
- バイドール法(1980) ── 連邦資金による研究成果の権利を、大学・研究機関の側に帰属させた。 権利を与える(閉じる)ことで、移転を起こす(開く)という設計。
- 特許・商標法改正(1982) ── 連邦巡回控訴裁判所(CAFC)を設置し、特許の判断を一本化した。 権利の予測可能性を上げることが、ライセンスという「開く」行為の前提になる。
- SBIR法(1982) ── 連邦研究開発予算の一定割合を中小企業へ。分業の担い手を、政策で作った。
- 国家共同研究法(1984) ── 共同研究開発に反トラスト法の当然違法の原則を適用せず、 合理の原則で判断することにした。競合が同じ部屋で標準を作る行為を、合法にした。
7二つの系譜の交差点に、知財がある
ここまで辿ってきた水脈は、当サイトがすでに持っている OI研究の系譜とは別のものである。両方を並べると、 自分たちがどこに立っているかが見える。
二つの水脈
→ Chandler 1977 → Baldwin & Clark 2000 → Langlois 2003 → 小川 2014
→ Cohen & Levinthal 1990 → Burt 1992 → 野中・竹内 1995 → Chesbrough 2003
→ Carlile 2004 → Laursen & Salter 2006 → Dahlander & Gann 2010
この位置づけは、WG の問い(5つ+1の問い)にそのまま対応する。
| WG の問い | この系譜が用意している答え/道具 |
|---|---|
| Q1 なぜ日本は弱いか (知財は上流の設計へ) |
「上流の設計」の正体は制度設計である(§6)。リストの関税同盟と鉄道網、米国の1980–84年、 いずれも産業が成立する前に制度が置かれている |
| Q3 何を仕組み化しているか | ボールドウィン&クラークの可視情報/隠れ情報の線引き(§4)が、そのまま仕組み化の比較軸になる |
| Q4 翻訳者機能 | バートの構造的空隙とグラノヴェッターの弱い紐帯(§5)。 翻訳者とは、空隙に立って両側の言語を持つ人のこと |
| Q5 守りながらどう開くか | 本ノート全体がここに効く。とくに「開くために閉じる制度を同時に作る」(§6)という順序 |
8系譜が届かない場所 ── データ
最後に、この系譜の端を見ておきたい。二百五十年の理論が、そろって想定していないものが一つある。
ここで、二つの制度史が同時に効いてくる。
- 特許制度は1870年代のドイツで体系化されて以来、物的な発明を前提にしている。 1980年の著作権法改正は、その前提をソフトウェアについて一度だけ破った(§6)。
- だがデータについては、まだ誰も破っていない。 EU も日本も概念のレベルにとどまり、既存の知的財産権では捕まえきれていない。
つまり現在地は、1980年の直前に似ている。 ソフトウェアという新種の財に、立法が追いついていなかった時期である。 そのときの答えは立法だった。データの答えが同じく立法なのか、 それとも契約・アクセス制御・標準(データスペースのルール)の組み合わせで現場が先に走るのか—— そこが、この系譜の未記入の最終行である。
参考:この問題を「担保はどこに置かれてきたか」という軸で、日本の産業史(1877年〜)から辿ったのが 見せることと、守ることと 電機四社の外資提携 1899–1975である。 制度が信用できないうちは資本で担保し、制度が育つと契約で足りるようになる—— という移動が、データの領域でもう一度起きている可能性がある。
9未検証の論点 ── ここは確かめていない
本ノートのうち、原典で裏を取っていない箇所を明示しておく。異論・訂正を歓迎する。
両者はドイツ語圏で時代が接しており(リスト没 1846/シュンペーター 1883年生・『経済発展の理論』1912)、 「結合」という語の一致は示唆的だが、書簡・引用による直接の裏づけは取っていない。 状況証拠にとどまる。ここを詰めると系譜の一本が実線になる。
小川紘一『オープン&クローズ戦略』(2014年、増補改訂版 2015年)で提示された概念と理解しているが、 初出の論文・年次までは特定していない。また四つの手を時代に割り当てる区分は、 現象の発生時期と概念の提唱時期がずれるため、扱いに注意が要る。
「関税同盟=プロトコルの統一、鉄道網=物理層の標準化」(§2)は本ノートの解釈であって、 リスト自身がアーキテクチャの語彙で書いたわけではない。比喩として有用だが、根拠として使うなら要注意。
ローマーやアーサーの収穫逓増・経路依存の議論とは概念的に近縁だが、 直接の引用関係は追っていない。§3 は概念の近さを述べたにとどまる。
MMRC を中心とするアーキテクチャ論(§4 末尾)は一段落しか置けていない。 本来はここに、日本のアーキテクチャ研究と標準化研究の系譜を一本立てるべきである。宿題。
10原典
- 分業と結合の本流
- Adam Smith, An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations, 1776./ Adam Smith, The Theory of Moral Sentiments, 1759./ Friedrich List, Das nationale System der politischen Ökonomie, 1841(邦訳『政治経済学の国民的体系』)。 リストは1833年にドイツ鉄道網を建議し、1834年発足のドイツ関税同盟の理論的支柱となった。/ Joseph A. Schumpeter, Theorie der wirtschaftlichen Entwicklung, 1912(邦訳『経済発展の理論』)。/ Allyn A. Young, "Increasing Returns and Economic Progress", The Economic Journal 38(152), 1928.
- 企業の境界と四つの手
- Alfred D. Chandler Jr., The Visible Hand: The Managerial Revolution in American Business, Harvard UP, 1977./ Richard N. Langlois, "The Vanishing Hand: the Changing Dynamics of Industrial Capitalism", Industrial and Corporate Change 12(2), 2003, pp.351–385./ 小川紘一『オープン&クローズ戦略 日本企業再興の条件』翔泳社、2014(増補改訂版 2015)。
- モジュール化・アーキテクチャ
- Herbert A. Simon, "The Architecture of Complexity", Proceedings of the American Philosophical Society 106(6), 1962./ Carliss Y. Baldwin & Kim B. Clark, Design Rules, Vol.1: The Power of Modularity, MIT Press, 2000./ 東京大学ものづくり経営研究センター(MMRC)のアーキテクチャ論。
- 繋がりの理論
- Mark S. Granovetter, "The Strength of Weak Ties", American Journal of Sociology 78(6), 1973./ Ronald S. Burt, Structural Holes: The Social Structure of Competition, Harvard UP, 1992./ Karl E. Weick, The Social Psychology of Organizing, 1969(第2版 1979)。/ Herbert A. Simon の限定合理性(Administrative Behavior, 1947 ほか)。 これらの多くは当サイトOI研究の系譜にも収載。
- 政策
- 米国 Computer Software Copyright Act(1980)/Bayh–Dole Act(1980)/ Federal Courts Improvement Act(1982、CAFC設置)/Small Business Innovation Development Act(1982)/ National Cooperative Research Act(1984)。/ ミルトン・フリードマンの初訪中は1980年9月(鄧小平政権の招請)。深圳経済特区の設置は1980年8月。