Open Innovation WG ・ 問いへの応答

見せることと、
守ること

WG で二つの問いが出た。Open & Close は明治から続く課題だったのではないか。そして、弱い紐帯でイノベーターを繋げないか。——別々の話に見えるが、同じ一つのことの表と裏である。しかもその答えは、すでにこのサイトの記事群に散らばっていた。

問い 1

Open & Close は明治から続く課題だったのではないか。日本初の特許と内国勧業博覧会から考える。時代を遡ると、今と同じことを考えていて 140 年変わっていないのではないか。

問い 2

グラノヴェッター「弱い紐帯の強み」を思い出した。OI のイノベーターのつながりが、JIPA を通してできないか。

先に結論

問い1は、ほぼその通りである。ただし「140年変わっていない」より正確には、同じ問いに違う答えを出し続けてきた140年である。変わっていないのは「見せなければ広まらないが、見せれば真似される」という同時性そのもので、変わったのは担保をどこに置くかだった。

問い2の線は、すでに引いてある。グラノヴェッターは本サイトのOI研究の系譜に、野中・竹内と対で載っている。そして歴史の側には、弱い紐帯が実際に働いた事例が四つ埋まっていた。JIPA は 1938 年の発足時点から、すでにそういう装置だった。

ただし条件がある。繋げば繋ぐほど良いわけではない。ここが実務の設計に効く。

1

日本の特許第1号は、船底の塗料だった

1885 年 8 月 14 日、日本で最初の特許が与えられた。同じ日に 7 件が認められ、その第 1 号が堀田瑞松「堀田錆止塗料及ビ其塗法」である。

堀田は彫刻家であり、漆工芸家だった。漆に防錆の効果があることを、仕事を通じて知っていた。それを鉄製の船底や機械に塗るという用途に持っていった。在来の技術を、新しく入ってきた素材の弱点に当てたわけである。

この構図は、本サイトの反射炉のノートで見た話の、ちょうど裏返しになっている。あちらでは、たたら製鉄が作る砂鉄の銑鉄は燐と硫黄が少ないという長所を持ちながら、大砲の砲身という用途ではその長所がそのままでは効かなかった。こちらでは、漆という在来技術の性質が、鉄の船という新しい対象にぴたりと嵌まった。在来技術が接合できるかどうかは、技術の優劣ではなく、相手の用途との噛み合わせで決まる。

そして日付を並べると、もう一つ見えるものがある。特許第 1 号が 1885 年 8 月 14 日。日本郵船の設立が、同じ 1885 年の 9 月 29 日。六週間違いである。鉄の船を走らせる会社と、その船底を守る技術に与えられた日本最初の特許が、同じ年に生まれている。

2

見せる装置と、守る装置は、一組で作られた

問い1の核心はここにある。

1877 年(明治 10 年)8 月 21 日から 11 月 30 日まで、上野公園で第 1 回内国勧業博覧会が開かれた。大久保利通の建議による。岩倉使節団が視察した 1873 年のウィーン万国博覧会をモデルとし、鉱業・冶金術、製造物、美術、機械、農業、園芸の六部門に分けて展示され、全国から 45 万人を超える人が訪れた。

目的は明快である。殖産興業で得た技術と品を、多くの人に見せること。見せなければ広まらない。これは徹底して Open の装置である。

ところが、見せると真似される。この問題は国際的にはすでに露呈していた。本サイトの送電インフラと工業所有権で書いたとおり、1873 年のウィーン万博では出展品の模倣が頻発し、それがパリ条約(1883 年)の直接の引き金になっている。国際的な産業の展示と、国際的な保護は、同じコインの裏表だった。

日本国内でも同じことが起きる。1877 年の内国勧業博覧会の開催から、1885 年の専売特許条例の公布・施行へつながった、という説明は公的な資料でも述べられている。見せる装置を作った八年後に、守る装置を作った。順序が逆ではない。見せたから、守る必要が出た。

見せる装置、守る装置、つなぐ装置は、同じ時間軸の上にある 1850 1860 1870 1880 1890 1900 1910 1920 1930 1940 1950 1960 見せる Open 1873 ウィーン万博 1877 第1回内国勧業博覧会 守る Close 1883 パリ条約 1885 専売特許条例/特許第1号 1899 特許法・パリ条約加盟 1921 製法特許のみ つなぐ Weak ties 1857 佐賀藩が韮山・萩を支援 1901 八幡へ野呂景義が戻る 1938 重陽会(のちのJIPA) 1956 LD転炉の国内再許諾 見せる装置と守る装置は、最初から一組で作られた。 つなぐ装置はその後から来て、契約では買えないものを運んだ。
三つの帯を同じ時間軸に載せた。上二段が問い1(見せる/守る)、下段が問い2(つなぐ)。見せる装置と守る装置は八年差で一組として作られ、つなぐ装置はその後から来て、契約では買えないものを運んだ。「つなぐ」の1857年は佐賀藩が韮山・萩の反射炉建造を支援した時期を指す。
しかも1885年の専売特許条例は、二重のOpen & Closeだった。この条例は外国人の出願を受け付けなかった。国内には開き、国外には閉じている。つまり外国の技術を日本で真似ることは、国内法上とがめられない。国立国会図書館の解説は理由をこう書く——外国の技術を取り入れる段階だった日本は、外国人の申請を認めなかった。Open と Close は、相手によって使い分けられていた。この使い分けが崩れるのが 1899 年で、しかもその動機は技術政策ではなく条約改正だった(→ 送電インフラと工業所有権)。
3

「140年変わっていない」は、どこまで正しいか

変わっていないものと、変わったものを分けておきたい。ここを分けないと、歴史が「昔も同じでしたね」で終わってしまう。

 中身
変わっていない見せなければ広まらないが、見せれば真似される。この同時性そのもの。1877年の博覧会と1885年の条例が一組だったのと、いま標準化と特許を同時に設計するのは、同じ問題である。
変わった(1)担保をどこに置くか。制度が信用できないうちは資本で担保した(合弁)。制度と司法が育つと契約で足りるようになった(ライセンス)。この移動が日本の産業史の主軸である。
変わった(2)「開く」の分解能。かつては開くか閉じるかの二択だったが、いまは獲得・調達・販売・開示の四類型に分けて語れる(Dahlander & Gann 2010)。開放度と成果が逆U字になることも分かっている(Laursen & Salter 2006)。
変わった(3)相手が誰か。1885年の Close の相手は外国人一般だった。いまは相手ごとに、国ごとに、工程ごとに設計する。

だから「140 年変わっていない」は、問いの水準では正しく、答えの水準では正しくない。そしてこの言い方をすると、歴史を持ち出す意味がはっきりする。同じ問いに対して先人が出した答えを並べれば、自分がいまどの答えを選ぼうとしているのかが見える。

4

弱い紐帯 — その線は、すでに引いてある

問い2に移る。

グラノヴェッター「弱い紐帯の強み」(1973 年)は、本サイトのOI研究の系譜にすでに置いてある。系統B「境界・探索・吸収(=翻訳者)」の中で、野中・竹内(1995)の暗黙知→形式知の変換モデルと対にして、「弱い紐帯=新規情報の経路」と記されている。同じノートの図3では、ライフサイクルの第2フェーズ「探索・相手選定」にも置かれている。

つまり理論の位置づけは済んでいる。足りていなかったのは、歴史の側の実例だった。そしてそれは、この一年で書いてきた記事のなかに、すでに四つ埋まっていた。

年何が起きたかどんな紐帯だったか
1850年代佐賀藩が、韮山や萩の反射炉建造を支援した。黒船来航後、幕府は自前で作らず佐賀藩に鉄製大砲を発注した藩という単位を越えた水平の移動。競合しているはずの主体が知識を渡している
1901年八幡製鉄所で、設計どおりのドイツ式高炉が吹き止まった。帝国大学の野呂景義が呼び戻され、日本の原料に合わせて作り直して再稼働させた企業の内側では解けず、別のクラスタ(大学)から来た人が解いた
1938年重陽会が発足した。業界団体ではなく、企業内の特許実務者の集まりとして始まった企業を越えた実務者の紐帯。政治性が薄かったため戦中戦後の解散を免れ、連続性を保った
1956–57年LD転炉の導入で、日本鋼管がジェネラルライセンスを取り、独占せず国内へ均等に再許諾した。並行して鉄鋼協会での操業データ共有と技術者の相互訪問があった契約では買えない操業ノウハウを、業界内の紐帯が運んだ

問い2への直接の答え

JIPA は、1938 年の発足時点からすでに弱い紐帯の装置だった。重陽会は業界団体ではなく、企業内特許部の担当者が企業の壁を越えて集まった組織である。必要性が最も切実だったのは、外国技術の導入とライセンス交渉を大量に抱えた電機・重電・化学の各社だった。

つまり「JIPA を通してイノベーターのつながりを作れないか」という提案は、新しい発明ではなくこの組織の起源に戻る提案である。87 年前に一度やっていることを、対象を特許実務者から OI の実践者に替えてもう一度やる、と言い換えられる。起源に根拠があるというのは、提案としてはかなり強い。

5

ただし、繋げば繋ぐほど良いわけではない

ここが設計に効くところなので、条件を三つ書いておきたい。いずれも同じ系譜ノートに載っている理論である。

第一に、開放度と成果は逆U字を描く。Laursen & Salter(2006)の探索の幅と深さの議論で、探索先を増やすほど成果は上がるが、ある点を超えると下がる。繋ぐこと自体がコストであり、消耗するからである。「多く繋ぐ」は目標にならない。

第二に、受け取る側に吸収能力が要る。Cohen & Levinthal(1990)。外部の知識を使うには自前の研究開発が要る。「外から買えば内は要らない」は成り立たない。紐帯を作っても、受け手に消化する力がなければ情報は素通りする。

第三に、紐帯そのものより翻訳者が効く。Allen のテクニカル・ゲートキーパー(1977–82)は、外部情報を社内語に変換する少数者を指す。Carlile(2004)は境界を三層に分けた——統語論的な移転、意味論的な翻訳、そして語用論的な変換(=利害の作り替え)。難しいのは情報を運ぶことではなく、利害を作り替えることである。

歴史の側もこれを裏づけている。LD転炉で運ばれたのは情報ではなく操業の身体知だった。1901 年の八幡で必要だったのは高炉の知識ではなく、日本の原料の実態に合わせて設計を書き換えられる人だった。どちらも、繋がりの本数ではなく、繋がった先に誰がいたかで決まっている。

だから、設計すべきなのは

「何本繋ぐか」ではなく「誰を翻訳者に置くか」である。そして翻訳者に求められるのは、両側の言語を持っていることと、利害を作り替える権限を持っていることである。情報を運ぶだけの人を置いても、語用論的な境界は越えない。

JIPA が持っている強みはそこにある。企業を越えた実務者が、自社の利害を代表しつつ他社の実務者と同じ部屋にいる。これは翻訳者を大量に抱えている状態である。足りないのは繋がりではなく、繋がりの上で「何を交換してよいか」の設計かもしれない。

6

読む順

二つの問いに関係する既存のノートを、答えの在りかとして並べておく。

7

まだ埋まっていない穴

博覧会から特許制度への因果。「1877年の内国勧業博覧会の開催が1885年の専売特許条例につながった」という説明は公的資料に見られるが、どの程度直接の因果なのかは検証していない。欧米の制度実績や条約交渉など、他の要因も同時に働いている。
内国勧業博覧会での模倣問題。ウィーン万博で模倣が問題になったことは確認できたが、内国勧業博覧会の出品物について国内で同種の問題が起きたかどうかは確認できていない。本文では国内の模倣事件を主張していない。
特許第1号の同日7件。1885年8月14日に7件が認められたとされるが、他の6件の内容には当たっていない。
重陽会の発起人。誰が言い出したのかを特定できていない。ここが判明すると「JIPAは最初から紐帯装置だった」という主張の裏づけが一段強くなる。
弱い紐帯としての妥当性。本文で挙げた四例が、グラノヴェッターの言う「弱い紐帯」の定義(頻度・情緒的強度・親密さ・互酬性が低い関係)に厳密に当てはまるかは検証していない。藩どうしや業界団体内の関係は、むしろ強い紐帯に近い可能性がある。ここは反証を歓迎したい論点である。

主な典拠

特許第1号/1885年8月14日、堀田瑞松「堀田錆止塗料及ビ其塗法」。同日に7件が認められた。堀田は彫刻家・漆工芸家で、漆の防錆効果を鉄製の船底や機械へ応用した。専売特許条例は1885年4月18日公布(高橋是清ら)。

内国勧業博覧会/第1回は1877年8月21日〜11月30日、上野公園。大久保利通の建議、1873年ウィーン万博をモデルとし、六部門で展示、来場45万人超。

日本郵船/1885年9月29日設立(郵便汽船三菱会社と共同運輸会社の合併)、創業は10月1日。

理論/Granovetter, M. (1973) "The Strength of Weak Ties", American Journal of Sociology 78(6), 1360–1380. / 逆U字は Laursen & Salter (2006)、吸収能力は Cohen & Levinthal (1990)、境界の3層は Carlile (2004)、開放の4類型は Dahlander & Gann (2010)。いずれも本サイト「OI研究の系譜」に収載。

制度と事例/本サイト内「送電インフラと工業所有権」「反射炉」「LD転炉と戦後日本の技術導入」「新産業が生まれる条件 事例ライブラリ」。