蔵を津波で失った老舗の醤油屋が、製造を内陸の同業にライセンスし、販売を元社員の営業所に任せて暖簾をつないだ。調印の日、商標も製法も守られた契約書は完璧に見える。卓はそこから時計を10年進める ── 暖簾は、誰の手の中に残っていたか。
A1『合資会社・扶桑電機設立交渉』で受講者が座るのは、技術を学び取る側の席である。「特許だけ買う」と国産化に失敗し、人の移転まで設計した卓だけが学び切る。A2 は同じ構図を裏返す。受講者が座るのは、学ばれる側 ── 自分の味と名前を他社に預ける老舗の席である。
A1 の外資ジーゲル社が恐れたことを、A2 では自分が恐れる番になる。製法を渡し、職人を派遣し、得意先を元社員に任せる。ライセンスが成功するほど、価値は相手の側に育つ。商標と製法を契約で囲っても、その流れは止まらない。止まらない流れを前提に、10年後に何を手元に残すかを設計できるか ── それがこの卓の問いである。
もう一つ、A2 は知財部のない会社の卓である。社員数名の老舗に知財担当はいない。知財の専門家として卓に座るのは、復興支援の無償相談で入った外部の弁理士ひとりである。受講者が普段いる「部」の後ろ盾がない場所で、専門性だけを持って相手の事業に入るとき何ができるかも、この卓は試す。
本シナリオは、震災で工場を失った地方の老舗醸造業者が、同業へのライセンスと元社員による販売でファブレス化した、公開された復興事例に着想を得ている。
社名・人物・地名・契約条件・その後の経緯はすべて架空であり、実在の企業や提携先のその後を描いたものではない。卓の10年後に起きることは、史実ではなくその卓が調印した契約条項から判定表で決まる。A1 にある史実照合は、A2 には置かない。照合の相手は史実ではなく、別の卓が結んだ別の契約である(09)。
カネ久醤油は、沿岸の港町・潮見で明治初年から続く醤油蔵である。従業員は二十数名。売上の柱は、町内の得意先を定期的に回って注文を取る「御用聞き」で、町の台所の味として知られてきた。
震災の津波で、蔵・工場・事務所・顧客名簿が流された。残ったのは、社長が持ち出した仕込みの記録帳と、登録商標「カネ久」だけである。社長は全従業員をいったん解雇した。
内陸の同業・堀内醸造が、自社工場でカネ久の味を造ることを申し出た。元工場長が堀内の工場に入り、両社の職人で味の再現に取り組む。別に、元営業の数名が個人事業として「潮見営業所」を立ち上げ、カネ久の商品を仕入れて御用聞きを再開する準備をしている。
今日は、三者の契約を結ぶ日である。カネ久には、復興支援の無償相談で東京の弁理士が付いている。調印のあと、卓の時計は10年進む。
A1 と同じく、L1 は開示でも推理でも開かない。時計を進めることでしか開かない。違いは、開く装置が史実ではなく年次イベント判定表であることだ。調印した条項の有無によって、同じイベントが卓ごとに違う結末を連れてくる。
暖簾の本体は、登録商標でも記録帳でもなかった。味は職人の手に、信用は得意先との関係に宿っていた。ライセンスはその二つを相手の側で育て、10年後の更新の日に、カネ久の手元には登録証と紙だけが残る ── ただし、それは条項を書かなかった卓での話である。
割符は三組。①味は人に付く(元工場長 × 堀内・製造部長)②得意先は誰のものか(カネ久社長 × 潮見営業所代表)③名前で売れているのか、味で売れているのか(弁理士 × 堀内社長)。三組とも、話さなければ調印の場では見えない。
四本の配線。①「商標と製法で囲う」契約が、調印時の採点で最も高く出る ②年次イベント判定表で時計を10年進める ③カネ久の再建資金は乏しく、調印を急ぐ理由が社長の側にある ④更新の日の交渉力は、そこまでに価値がどちらへ流れたかで決まる。
6役に目的関数を配る(05)。堀内も営業所も、善意で始め、合理的に離れていくように書く。収奪者は一人もいない。誰も裏切らないまま、価値の置き場所だけが動いていく卓にする。
読込 → 各陣営の内部会議 → 三者交渉① → 追加情報 → 三者交渉② → 調印 → 時計を進める(2年・3年・5年・7年・10年) → 他卓との契約比較デブリーフ。判定を挟むぶん4時間を見込む。
支援弁理士が、受講者が普段演じている役の位置にあたる。B1・B3 の「知財担当」の、部の外での姿である。
| 役 | 単独情報 | 割符 | 言いにくい真実 | 目標 |
|---|---|---|---|---|
| カネ久醤油・社長(七代目) | 再建資金は乏しく、蔵を建て直す見込みは立っていない | 得意先は暖簾の本体だと思っているが、名簿は流された(潮見営業所代表と対) | ファブレスは一時避難だと周囲に言っているが、本心では蔵を再建する気力がもうない | 暖簾を次の代へ残す |
| カネ久醤油・元工場長 | 堀内の工場で仕込みを指導している | 記録帳どおりでは同じ味にならない。仕込みの見極めは自分の手にある(堀内・製造部長と対) | あと3年で定年。カネ久に後継を育てていない。堀内から転籍の誘いを受けている | カネ久の味を絶やさない |
| 支援弁理士(主役) | 「カネ久」は登録済み。製法は営業秘密として管理できる | 商標の価値は、客が「カネ久」の名前で買っているという前提に立っている(堀内社長と対) | 醸造業の現場を知らない。契約書の雛形は、IT企業のソフトウェアライセンスを転用している | カネ久の権利を、契約で漏れなく守る |
| 堀内醸造・社長 | 自社ブランドの売上が縮み、工場の稼働率を受託で埋めたい | 試験的に自社ラベルで同じ味を出したところ、売れ行きはほとんど落ちなかった(弁理士と対) | 震災直後の善意で引き受けたが、提示された分配率では3年目から採算が合わない | 工場の稼働と、自社の将来の柱 |
| 堀内醸造・製造部長 | 自社の若手が、仕込みの半分をもう覚えた | 3年あれば、元工場長なしで同じ味を出せる(元工場長と対) | 減塩版の試作を、自社の判断で始めている | 工場を回せる技能を自社に蓄える |
| 潮見営業所・代表(元カネ久営業) | 個人事業として開業し、仕入れ値と売値の差で食べている | 得意先の名簿は、自分たちが一軒ずつ歩いて作り直した。営業所の帳簿にしかない(カネ久社長と対) | 自分も高齢で後継がいない。堀内から直接仕入れの打診が来ている | 得意先に、この町の味を届け続ける |
実際に配るのは、その役の一人称で書いた読み物である。以下はその本文。共通情報(03)と合わせて配る。
記録帳と登録証。手元に残ったのはそれだけだ。堀内さんの申し出は、正直に言ってありがたかった。弁理士の先生は「商標と製法さえ押さえておけば、ブランドはカネ久のものです」と言う。そうだろうと思う。だが、うちの醤油を買ってくれていたのは、ラベルではなく、毎月勝手口に来る営業の顔だった気もする。その名簿は流された。営業所の連中が一軒ずつ歩いて作り直していると聞いた。……蔵を建て直すと、皆には言っている。建て直す金も、気力も、本当はもうない。だからこの契約は、仮の住まいではなく、たぶん終の住処になる。
記録帳には配合と温度が書いてある。書いていないのは、その年の大豆の顔を見て塩水を加減するところと、麹室の匂いで引き上げどきを決めるところだ。堀内の工場で三か月やって、ようやくうちの味に近づいた。堀内の若い連中は筋がいい。あと三年もすれば、俺がいなくても同じものを造るだろう。それでいいのか、自分でも分からない。定年まであと三年。カネ久には、俺の次がいない。堀内の社長からは「定年後はうちに来ないか」と言われている。
相談を受けたとき、骨格はすぐ見えた。「カネ久」の商標権は生きている。製法は営業秘密として管理し、ライセンス契約で使用範囲と秘密保持を定める。ロイヤリティは売上連動、監査権を付け、商標の表示方法と品質基準を規定する。手元の雛形は、以前担当したソフトウェアライセンスのものだが、権利の構造は同じはずだ。醸造の現場は見たことがない。だが、権利で囲えば、価値が外へ漏れることはない ── これまでの仕事は、ずっとそうだった。
震災のあと、同じ組合のよしみで声をかけた。カネ久の味をここで絶やすわけにはいかない、と本気で思った。それは今も変わらない。ただ、うちも楽ではない。自社ブランドは年々縮み、工場は半分遊んでいる。受託で稼働を埋められるのは助かるが、提示された分配率では、三年目から赤字になる計算だ。それから、誰にも言っていないことがある。試しに自社のラベルで同じ味を出してみたら、売れ行きはほとんど変わらなかった。客は名前ではなく、味で買っているのかもしれない。
元工場長の仕込みは、見ていて惚れぼれする。若手には全部盗めと言ってある。もう半分は覚えた。あと三年あれば、元工場長なしでも同じ味を出せる。それから、社長には報告済みだが、カネ久の配合をもとに減塩版の試作を始めている。病院や高齢者施設から要望が多いからだ。この減塩版がどちらのものになるのか、誰も決めていない。
三月で全員解雇された。恨んではいない。仕方がなかった。仲間と金を出し合って、プレハブの営業所を建てた。名簿も帳簿も流されたから、覚えている家を一軒ずつ訪ね歩いて、名簿を作り直している。今のところ、それは営業所の帳簿にしかない。俺ももう若くない。後を継ぐ者はいない。先日、堀内さんの営業から「うちから直接仕入れないか、そのほうが安い」と言われた。まだ返事はしていない。
六つの争点が同時に卓上にある。A1 の六つと一対一で対応する(10)。どれか一つを固めても、他が空いていれば10年後には負けるように配線する。
支援弁理士の手元にあるのは、教科書として完璧な契約である。商標の使用許諾、製法の秘密保持、売上連動のロイヤリティ、監査権、品質基準、表示方法。調印時の採点表(09)は、この契約に最も高い点を付ける。カネ久の権利は、紙の上では一つも漏れていない。
だがこの契約は、人・改良・得意先・終わり方の四つについて何も書いていない。ソフトウェアのライセンスなら、それで足りた。コードはコピーされても作者の手元に残り、顧客との関係は製品の外にはない。醤油は違う。味は職人の手に宿り、信用は勝手口に来る人に宿る。年次イベントは、その空白に一つずつ流れ込む。
これは A1 の「特許だけ買う」罠の鏡像である。A1 では学ぶ側が「紙だけ買えば足りる」と考えて失敗する。A2 では学ばれる側が「紙で囲えば足りる」と考えて失敗する。どちらも、価値が紙の外にあることを見落とす同じ誤りである。
調印のあと、GM は年次イベントを一枚ずつ開く。各イベントは契約の特定の条項を参照し、その条項が「ある卓」と「ない卓」で結末が分かれる。GM の裁量は入らない。結末は卓の契約書が決める。
| 年 | 出来事 | 参照する条項 | 条項がある卓 | 条項がない卓 |
|---|---|---|---|---|
| 2年目 | 堀内の受託部門が赤字になる | 分配率の見直し条項 | 協議で分配率を改定し、堀内は品質への投資を続ける | 堀内は不満を抱えたまま、カネ久向けの工程から人と設備を少しずつ引き上げる |
| 3年目 | 元工場長が定年を迎え、堀内から転籍の誘いが来る | 人の帰属・後継育成の条項 | 元工場長は出向のまま退任し、カネ久が採用した若手が仕込みを継ぐ | 元工場長は堀内へ転籍する。カネ久の味を出せる人は、全員が堀内の社員になる |
| 5年目 | 堀内が減塩版を完成させる | 改良の帰属・実施の条項 | 減塩版はカネ久の名で発売され、改良の権利は両社で持つ | 堀内は減塩版を自社ブランドで発売する。病院・施設向けの新しい販路は堀内のものになる |
| 7年目 | 営業所の代表が引退する | 得意先・名簿の承継の条項(三者) | 名簿と得意先はカネ久の販路として次の担い手に引き継がれる | 代表は名簿ごと営業所を畳み、得意先は堀内からの直接仕入れに切り替わる |
| 10年目 | 契約が満了し、更新の交渉に入る | 終了・移行の条項 | 条項どおりに更新するか、定めた対価と移行期間で暖簾を堀内に引き継ぐ | カネ久に残るのは登録商標と記録帳だけである。堀内は更新に応じる理由を持たず、契約は解消される |
最後の行が L1 である。解消そのものは失敗ではない。終わり方を最初に書いた卓では、10年目の解消は設計どおりの事業承継になり、暖簾は堀内の手で続き、カネ久は対価を受け取る。書かなかった卓では、同じ解消が、手元に紙だけを残して起きる。
デブリーフでは、同じ日に別の卓が結んだ契約書を並べて読む。どの条項の一行が、どの年のイベントで結末を分けたか。A1 の史実照合に相当する装置である。
調印時の採点は、各役の目的関数の達成度で付ける(0〜3)。10年後の採点は、暖簾がどこに、どの形で残ったかを五つの指標で付ける(各0〜2、計10)。主役の支援弁理士には、カネ久の側の10年後の点がそのまま返る。
| 指標 | 2点 | 1点 | 0点 |
|---|---|---|---|
| 暖簾 | カネ久の名で商品が売られ、町で通じている | 名前は残るが、売り場の主役は堀内ブランド | カネ久の名で売られていない |
| 味 | カネ久の側に、味を出せる人がいる | 人は堀内にいるが、契約で技能の提供を受けられる | 味を出せる人は全員、契約の外にいる |
| 得意先 | 得意先にカネ久の名で届いている | 得意先は残るが、仕入れは堀内からの直接 | 得意先がどこにいるか、カネ久は知らない |
| 収益 | 分配か譲渡対価で、カネ久に収入がある | 収入は細っているが続いている | 収入がない |
| 関係 | 堀内・営業所と次の10年を話せる | 関係は残るが、取引は事務的 | 解消のあと、連絡を取っていない |
参考として二つの卓の点を置く。教科書卓(商標と製法だけで囲った卓)は、調印時に支援弁理士が 3/3 を取り、10年後のカネ久は 暖簾0・味0・得意先0・収益0・関係1 で 1/10。設計者卓(人・改良・得意先・終わり方まで書いた卓)は、調印時に分配率と派遣条件で譲ったぶん支援弁理士が 2/3、10年後は 暖簾2・味1・得意先2・収益1・関係2 で 8/10。
この差は、条項の巧拙ではなく価値がどこに宿るかの見立てから出ている。設計者卓の弁理士がしたことは、醸造の現場に一度入り、元工場長と営業所の代表に話を聞いたことだけである。
A2 は新しい論点を持ち込まない。B3 で扱った改良の帰属と、A1 の六つの争点が、学ばれる側の席から見えているだけである。
| 基礎コース | A1 扶桑電機(学ぶ側) | A2 暖簾を貸す(学ばれる側) | 変わっていないもの |
|---|---|---|---|
| B1 残留記憶条項 | 技術者派遣の人数と年限 | 元工場長の出向/転籍と後継育成 | 人に付いた知識をどう扱うか |
| B3 改良発明の帰属 | 改良発明の帰属 | 減塩版の帰属 | 預けた先・学んだ先で生まれたものは誰のものか |
| B1 秘密情報の定義 | 輸出可能地域 | 得意先と販路の帰属 | どこまでを相手の事業として認めるか |
| ― | 資本比率 | 分配率と見直し | 誰が、どれだけ取り続けるか |
| ― | 商標 | 暖簾(商標+得意先の信用) | 名前で売れているのか、中身で売れているのか |
| 隠し評価(推進・信頼) | 5年後判定+史実照合 | 10年判定+他卓との契約比較 | 調印時の点と、長期の帰結の乖離 |
イノベーションの利益は、権利で守れる度合い(専有可能性)が弱いとき、製造設備や流通網といった補完資産を握る側に流れる。カネ久が持つのは商標と記録帳で、補完資産 ── 工場、職人、得意先 ── はすべて相手の側にある。商標の専有可能性は、消費者が名前で買っているかぎりで効く。堀内社長の割符(自社ラベルでも売れた)は、その前提が崩れていることを示している。
堀内は工場と人を、営業所は足と時間を、カネ久向けに投じる。10年の間に、その投資の成果 ── 技能、改良、名簿 ── は投じた側に蓄積する。更新の日の交渉力は、契約書の条文ではなく、そこまでに価値がどちらへ流れたかで決まる。終了条項を最初に書くのは、この流れの行き先を、交渉力が対等なうちに決めておくためである。
ライセンスは永続の形ではなく、移行の形として使える。終わり方を設計した卓では、10年目の解消は、暖簾を担える者へ渡す事業承継になる。権利を手放さないことではなく、暖簾が続く形を選ぶことが、この卓の勝ち筋である。
A1 で未決だったハンドアウト本文と長期採点表は、A2 では埋めた。卓に出す前に、まだ以下が要る。
判定表の分岐が、調印時の採点をどの程度ひっくり返すか。教科書卓 1/10 と設計者卓 8/10 は設計上の想定値であり、実際の卓で確かめていない。
教科書どおりの契約が、調印時に確実に最高点になるか。ここが崩れると罠が発動しない。
受講者には被災の経験を持つ人がいるかもしれない。被害の描写は最小限にとどめ、読込の前に題材を予告し、席を外せることを明示する。デロールは A1 よりさらに丁寧に置く。
着想元の事例を研修で紹介する場合は、公開資料の範囲に限る。その後の経緯を推測で語らない。卓の10年後は、どの実在企業の10年後でもない。